祖父・山田昭雲(哲)

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「日本近現代美術史事典」より

日本における<彫刻>の歴史は、江戸時代からのさまざまな素材と表現方法が、
明治期になって新しい名前を持たなかった時から始まる。
その後、西洋の新古典主義的な価値観やA.ロダンの影響などによって
それらはしだいに取捨選択され、選ばれたものが<彫刻>とよばれるようになっていった。
(中略)そして、そのとき排除されたものは、その多くが「工芸」の分野に入れられ、
「置物」や「人形」といった語は、時には彫刻作品を揶揄する否定的な意味としても用いられた。
(中略)一方で、「工芸」の世界に入れられた立体造形表現は、
大正年末頃から機能性と造形性の関係を再考し、
抽象彫刻と呼んでもよいような作品さえ作り出してきた。


祖父は自分が職業としてどのように呼ばれるかは気にしていませんでした。
「仏師」とか「彫師」とも呼ばれ、書かれています。
戦後、棟方志功の命名による「叩き彫」の名も「一刀彫」など
色々と呼びかえられても平気でした。
作品に関しても「彫り物」「置物」「人形」と呼ばれる事にも甘んじていたのです。
私の場合においても「揶揄する否定的な表現」もありますが、
そういう評価は受け入れなければならないと思います。

厳密に言うと祖父は結婚して父が生れた後から
大阪へ彫刻の勉強に行きます。
そこで学んだのは、彫塑、木彫、テラコッタ、染織、漆芸、指物や
細密な模型制作など多彩なものだったようです。
弟子入りしたと言う話もありますが、今で言う専門学校へ通って
いたのではないかと想像します。
私は、本人からその話を聞いた事がありません。
父の思い出によると昭和の始めに、当時は珍しかった
カラー印刷の美術雑誌を手に入れて読んでいたようです。
定期購読するほどの余裕は当然ながら無かったと思われますが・・。
祖母は晩年まで妙にストレートな表現の、いわば味気ない
短歌を詠み続けていました。
100歳を過ぎてから、誰に短歌を習ったのか聞いてみると
祖父に習ったと言います。
風流人だった祖父は短歌も当時流行のスタイルで学んでいたようです。

戦後、棟方志功に出会い柳宗悦の民芸運動に深く触れ、
その影響で一介の職人であると言うような表現を好んでいたようですが、
作風は写真のようにますます先鋭的になっていきます。
一見、円空風ですが、観賞者に対する激しい気持ちが
自身の信仰のために彫っていた円空とは違う世界を持つのを
強く示しています。
文化勲章を目指していた棟方の考えには同意して憧れの気持ちを
持っていたようですが、息子へは厳しくストイックな生き方を望んでいました。
何が目標だったのか、今の私にも分かりませんが、
棟方志功と祖父はこの「叩き彫」が家に継承されていく事を願っていたそうです。
子孫達は強い意思を持っているわけではありませんが、
先人の思いは今も続いています。
この先がどうなるか分かりませんが、
私達に「使命」があるならそれは所謂「芸術」であるのを
4代目と確認し合いました。
大正時代に始まった我が家の「叩き彫」はやがて一世紀の時を
刻む事になります。
これが何であったのか自らに問いかける毎日でもあります。
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by tatakibori | 2014-04-11 07:18 | 仕事 | Comments(0)
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