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鉈彫り

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「ゆらぎ」と書いてきましたが、丸ノミで荒彫りするのを「鉈(なた)彫り」と言います。
鉈彫りと言ってもナタでなくてノミで彫ります。
江戸時代の「円空の鉈彫り」として有名ですが平安時代に流行った彫り方で
今で言うと完全にアートの表現です。
鎌倉時代には廃れてしまって、その後は江戸時代までこの技法は現れません。
仏像彫刻は鎌倉時代に技法や方法論が完成され独特のスタイルを磨き上げます。
それは細かな法則や技術の積み重ねで多くの時間や労力も必要とするものです。
鉈彫りは短時間で彫り上げる方法なので施主の多くの富を必要としない
庶民的なものだったのかもしれません。
白鳳時代から奈良、平安と優美さを求めてきた仏像は鎌倉時代の武士文化なのか
端正な力強さや緻密な方法論へと変化しているように思えます。

写真は津山の歴史上の人物「児島高徳像」で、ちょうど鎌倉時代末期の登場です。
十字の詩を刻んで後醍醐天皇に伝えたとされますが、これこそ当時の優雅な貴族文化で
鎌倉幕府の兵士達に分からない暗号として天皇に伝えたと言うのが興味深いところです。
後醍醐天皇は建武の新政(中興)として幕府が滅んだ後、朝廷の政治の復権を図りましたが
長く続かず吉野へ逃れて南北朝時代の始まりにつながります。
建武の新政を読んでみると面白い話がたくさん出てきます。
まず後醍醐天皇は政治的には全くセンスも人望も無かったようです。
何故その帝を多くの人々が支持して鎌倉幕府を倒すに至ったのかがポイントです。
私が読んで感じたのは芸術文化が大きく関係している事です。
この話、長くなるので続編を書きます。
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by tatakibori | 2012-07-31 20:54 | アート | Comments(0)

ゆらぎ・その4

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ツゲ材を4分の丸ノミを主に使って彫りました。
目標は石の様な硬いツゲの質感を丸ノミで出す事です。
切れ味よりもボロッと欠けたように彫れたら面白いのですが
小さくてそこまで届きませんでした。
小さな仏さまの場合は手は手のように見えたらそれでOKです。
できるだけシンプルに表現するほうが良いのです。
手数が少ない方が穢れ(ケガレ)が無いように思います。
もっともっとシンプルにしたいのですが、
表情がなくなっては心がこもりません。
それぞれの材木の質感や大きさが要求してくるものがあるようです。
それを見極めなければなりません。
今回は「ゆらぎ」がテーマなのでソフトなリズム感を出すためなので
このように落ち着きました。
材を変えて、同じようなテーマで彫ってみます。
ぜんぜん違うゆらぎが出てくるでしょう。
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by tatakibori | 2012-07-30 21:02 | アート | Comments(0)

ゆらぎ・その3

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抽象作品をもう一つ制作しました。
これは全体を4分幅の丸ノミで彫りました。
全体の形をのこぎりと大きなノミで整えてから、皮をむくように、
ノミ跡を残すように彫ります。
単調な作業ですが曲面なので辻褄が合わない箇所が出てきます。
逆目になってしまう箇所もあります。
一箇所の乱れを正すのに広く彫り直すという作業の繰り返しになります。
今回は簡単にざっと仕上げてみましたが、立体では気にならない箇所が
写真を撮って2次元になると落ち着かなくて気になります。
ここからさらに修正してノミ跡の調子を整えて完成へとなります。
全体の形が持つ表情よりも彫ったタッチの表現が主役になるのです。
この手の作品は手触りも味の一部なので触って確かめる作業も必要です。
抽象の小さな木彫は、ノミ跡や触感が大きな要素ですから
「手段が目的となる」趣味性のとても高い作品なのです。
本来その作品が持つ形などどうでも良いというか、
むしろノミ跡を残すために彫り進めていくうちに自然に出来上がったものなのです。
だからこそ、この作品の場合は「ゆらぎ」が重要であり、
それこそが伝えようとするものなのです。
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by tatakibori | 2012-07-29 19:37 | アート | Comments(2)

ゆらぎ・その2

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他人には分からない独りよがりの話では申し訳ないので
少し木彫における「ゆらぎ」というか表情の出し方の解説をしてみようと思います。
分かりやすいサンプルを制作しました。
基本的に平面なのですが、木彫の場合は刃物の彫り跡が残る
数多くの角度を変えた平面で構成されているのです。
たとえば等身大よりはかなり小さな作品に力強さを出すために
思いきってランダムなノミ跡をつけます。
そうすると光によって影が出来てみる角度によって表情を変えます。
コントラストも強くなり表現しようとする形にメリハリがついて
小さくてもその作品が何であるかを分かりやすくするのです。
すごくリアルな表現があるとすれば、現物に近づくほど無着色の木彫では
無表情でそれが何であるか分かり難くなってしまうでしょう。
こうやってランダムな平面構成に分解した平面はそのサイズを超えて
より大きな世界の表現を可能にするのです。
一尺足らずの仏さまに深い思いを込めるならそれぞれの部分のすべてに
この「ゆらぎ」が与えられているのです。
ヤスリで磨かないでノミを叩いて彫り上げるにはそういう意味があるのです。

これは絵画でも同じ事です。
たとえキャンバスが真っ白に塗りつぶしてあるだけでも
それが油彩の絵画ならこの「ゆらぎ」の複雑なリズムが絶対にあるはずです。
その気持ちを無くしてしまえばおそろしいほど味のない作品になります。
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by tatakibori | 2012-07-29 11:28 | アート | Comments(0)

ゆらぎ

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芸術にはゆらぎが重要だと言われます。
人間の心臓の鼓動もゆらぎを持っているから
複雑なゆらぎがある方が落ち着いたり
ウキウキと踊りだすような高揚が生れたりするのです。
音楽ならグルーブと言われるリズムのゆらぎがとても重要です。
他にも単純な和音に異質な音を足して少し崩す事で音の色を複雑で
豊かな表情にするようです。
また音の強弱によってもゆらぎは生れます。
人によってはだらしないように思えたり、
引っ掛かるように感じたりで違和感を持つ場合もありそうです。
絵画や彫刻でも似たようなゆらぎやにごりを加えて
より表情を豊かにしていると思います。
コンピューターで作った音楽があります。
そのゆらぎはすべて計算されて与えられたものだから
人間の個性とか民族性を感じたりしません。
あえてグルーブを排した音楽も数多くあります。
テクノとかハウス、サイケ(?)というかドラッグ系ダンスミュージックがそれだと思います。
単調でゆらぎのないリズムには引き込まれるような特性があり
独特の高揚感が発生するそうです。
それが崇高な芸術かどうかは大きな疑問です。
美術にもそれと似たような人間的なゆらぎを排したものが多くあります。
どれがそれに相当するかは分類が難しい所ですが
単調な繰り返しにゆらぎを持たないと感じるかどうかだと思います。
職人的工芸でも複雑なリズムの文様など加えるのはその世界の常識です。
それを排して機械的というかコンピューターで作ったようにするのです。
表現の主題を広げる手段なのでしょう。
所謂アートと言うのは基礎的な鍛錬を要しないでセンスで整えるというか
ゆらぎを必要としないものが多いと思います。

私のもつ世界があるとするならその個性をより客観的に見つめて
それを前に進めたいと思います。
私の作品の持つゆらぎをより磨きたいと思います。
単調なリズムならばこその複雑な感情の表現があるのは分かるのですが、
それをものにするのは見えない多くの基礎訓練が必要です。
年齢的にも時間がないので出来る事に限りがあります。
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by tatakibori | 2012-07-28 21:23 | アート | Comments(0)

地域おこし

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「地域おこし」という言葉が耳に馴染んできました。
「地域おこし協力隊」の若者達の活躍も大きいようです。
海外青年協力隊というのがありましたがそれの国内版だと思えば理解が早いです。
後進国の未開の地と違って国内ですからデリケートな課題も多く
自己満足では許されない厳しい仕事のように思えます。

奈義にも一人いて、彼の呼びかけに応じてミーティングに参加しました。
40人くらい集まっていましたが、参加者の顔ぶれを見ると奈義で生まれ育った人よりも
周辺や県外から移ってきた人、町内で働いている周辺の人が多いようでした。
主に観光について話し合ったのですが、奈義の美しい自然を見てもらいたい
というのは一致した意見です。
秋の早朝の山の駅から見る雲海などは滅多にない美しさです。
それぞれ普段は口にしないけど取って置きのスポットなどあって
あそこが見所だとか話は大いに盛り上がります。

ツアープランをグループに分かれ、提案したのですが、
私は若者向きに現代美術館と那岐登山を中心に持ってきました。
意外にも美術館を提案した人は他になかったのです。
私はふだん美術に興味のある人と接する事が多く、
インターネットでもそういう関係のページやブログを読む事が多いので
奈義と言えば現代美術館だという意見が主流だろうと思っていたのです。

現実の世間とネット社会のズレは大きいとは予想していましたが、
美術館はまったくお薦めスポットに上がらないのです。
それどころか、主催者側から批判的というか改善を要求するような意見も出ていました。

これこそがネット社会の大きな落とし穴です。
twitter上で大きな話題になって盛り上がり、多くの人が情報を共有して
国民的関心だと思っていても、日々の暮らしに追われ忙しく働いて
いる人やネットを見ない人はそれを全く知りません。
ネットを見ていても発言するのは一部の人です。
インターネットの場合はアクセス数が1,000あっても実体は数人の場合もあります。
国民の多くの意見と言ってもどうやってそれを把握するのかは
想像以上に難しい事だと思います。
例えば「反対デモ」のニュースを見たらオスプレイに多くの国民が嫌悪を
示しているように見えますが、実際にはほとんどの人は「無関心」だと思います。
現実を見極めるのはとても難しい作業だと思います。

話は元に戻りますが、奈義は美しい自然と豊かな農業の恵みこそが
特徴ですから、それを肌で感じて体験するような観光ツアーのための
準備をするのが先ずの課題のようです。
ネット社会では「日本に巣食うダニのように言われる」官僚の考えた
「地域おこし」は閉鎖的な日本の農村を開放して大きな一歩を進めました。
農村を再生する事は「食の安全」「再生可能エネルギー」「個人消費の拡大」など
多くの良い結果を生みます。
多くの人達が故郷を愛していると意思表示できただけでも素晴らしい事です。


写真は美術館の裏にある雇用促進住宅から、さらに山よりに進んだ
場所からの那岐連山の美しい眺めです。
画像上でクリックするとより大きな写真を見る事ができます。

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by tatakibori | 2012-07-24 10:24 | 日々の生活 | Comments(2)

文章のクセ

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文章のクセというのは自分が思うより強くあって、他人の文体を真似して書いてみようとすると
自分の個性に向き合うようになり、その時に初めて気がつくでしょう。
陥りやすい間違いや無意味な繰り返しなど自分では気がつき難いものです。
文体は単なる表現の違いを超えて、筆者の思考を如実に表すようです。

例文を書いてみましょう。

男性(61歳)
じつは言い難い話なんだけど、今すごく新しくておもしろいアイデアが浮かんでいるのだ。
これが実現したら人生の楽しさが3倍くらいにアップすること間違い無しだ。
思いきって公開すると、これまでのあれは何だったのだろうと失望する人が
出てくるんじゃないかと心配している。
そのうちこっそり発表しようともくろんでいるのだ。
乞うご期待である。ではでは。

男性(42歳)
夢の中ですごくひらめいてヤッタ!と思ったらそこで目が覚めた。
何を考えていたのかはどうしても思い出せない。
それでも気分の良い目覚めだったか。w

同じ事象に対してこれくらいの差はあります。
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by tatakibori | 2012-07-21 20:32 | 日々の生活 | Comments(0)

いじめ

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移り気な人々の関心は「脱原発デモ」から一気に「いじめ自殺事件」へと変わっています。
「いじめ」はいじめられた子供の立場で判断するように決められていますから
被害者がいじめられた意識を持っていれば「いじめ」となります。
もちろん暴力やカツアゲなどがあれば「いじめ」を越えて「傷害」や「恐喝」「器物破損」という
はっきりした犯罪になります。
いじめに対してはじっと我慢するのは解決にならないと専門家は言います。
先ず逃げるのが一番です。学校へは行かないのが身を守る最良の方法です。
学校は当事者を引き離すというか接触を持たないように努力しなければなりません。
それが嫌ならいじめにあった被害者は戦わなければならないと専門家は言います。
いずれにしても精神的、時間的、経済的にも実害は大きなものがあります。
「何かで勝つ」「戦う意思を表示する」というのはたいへんなエネルギーを必要とします。
親が「戦う事が出来る」というのを教えなければならないと専門家は小さな声で言います。
それはある部分の世間を敵にまわしてしまう事にもなるので家族全員の覚悟も要るのです。
戦う事は結果的にある部分の人々をとても不快にさせる事になるのです。
それがある程度の成果をあげて学校に行けるようになるのは
いじめた側にも大きな傷跡を残す事にもつながります。
それでもいじめられた子供がそれを乗り越えて完全に立ち直るかどうかは分かりません。
長い時間をかけて家族で乗り越えなければならないのです。
そう言うのが「いじめ」であって、今のニュースで騒いでいるのはすでに「犯罪」のように思えます。
犯罪を隠蔽しようとする大きな圧力を感じている多くの人々がいて
今回のような騒ぎになったのだろうと思いました。
これは当事者には解決というゴールの無い戦いです。
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by tatakibori | 2012-07-15 10:32 | 日々の生活 | Comments(4)

「この国」

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ギボウシは東アジア原産で「江戸時代の日本で変異個体が多数園芸品種として固定され、
さらにこれがシーボルトらによってヨーロッパに紹介されてヨーロッパでも多くの品種が育成された。」
とwikiにあります。
写真の種はヨーロッパからの輸入品ですから先祖の故国に帰った「日系ヨーロッパ人」みたいなものです。
90年代には「在日・日系フランス人の心意気」というようなスタイルが提唱された事もあり
やや日本を離れて人生観を考えるような人もありました。
その名残なのでしょうか我が国の事を「この国」と言う政治家がとても増えています。
公に「この国」と言って流行らせたのは故・筑紫哲也だったそうです。
やや日本を捨てている大江健三郎のような人ならそういう言葉を使っていても
違和感を持ちませんが政権与党の代議士が使うと逃げ腰のように思えます。
「この国」は離れて見る客観的な立場を主張しますが、見下しているように
受け取られる可能性があります。

言葉遣いというのはとてもデリケートで自分の優位を示す言葉を無意識のうちに選んでいる事があります。
夕方のニュース番組に出てくるキャスターが「なるほど」という相槌を打つのがとても気になります。
年長のゲストに「なるほど」を使うのはたいへんな無礼に見えます。
美作地方では微妙に相手を見下す時、一人称に「こっちの者」と言います。
じつに見事な言い方です。相手との間に確実な線を引くのです。
言葉は少し変えるだけで敵意や差別を表すようになる典型だと思います。

「この国」なら「あの国」とか「私の国」が別にありそうに思えるのは私だけでしょうか。
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by tatakibori | 2012-07-10 18:24 | 愚痴 | Comments(2)

地歌舞伎

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地歌舞伎(じかぶき)というより地下芝居(じげしばい)の方が
今の勝田郡地区では馴染みのある言葉です。
この写真は昭和の始めで、前列右端が祖父です。(落書きは私ではありません。その前の代です。w)
まだ岡山県北ではラジオの放送も始まっていません。
映画も「活動」としてあったのですがサイレントからトーキーに
移行を始めたばかりですからタイトルも少なかったようです。
父が浄瑠璃を知ったのはこの頃、小学校に上がる前にすでに親しんでいたのです。
今で言うと人間国宝の竹本なんとか太夫さんも地方行脚をしていて、
山田家の先祖が住んだ地区にも一年に一度その一派が興行をしたそうです。
大阪まで行けない貧しい百姓の民もレベルの高い文化を楽しんでいたのです。

美作地区東部では今もこの農村歌舞伎が残っています。
若い頃は、なんか時代遅れというか恥ずかしいように見えていました。
昼間の明るい学校の体育館のステージでボロボロになった衣装も持ち出して
やっていたのですから、どこか惨めにも見えて仕方がなかったのです。
しぶとく続けた保存会の皆さんには頭が下がります。
今や立派なホールのステージで衣装もきれいになり、
若い人の参加も増えてけっこう楽しめるようになりました。

当地でもアマチュアミュージシャンが増えて、
ちょっとしたライブやコンサートが多くあります。
レベルはけっして低いものではないと思います。
むしろ人口対比で言うと上手いバンドが多いのに驚きます。

大正から昭和の始めにかけて文化的に盛り上がった時代が
あったようですが、今まさにその時代がふたたびやってきたように思えます。

祖父は音楽や芝居が大好きで参加していたようですが、
残念ながら私はその方面の才能がないので観るだけです。
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by tatakibori | 2012-07-07 07:38 | 日々の生活 | Comments(0)