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水は低い方へ流れる

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水が流れるように、お金もある方から無い方へ流れます。
隣国との関係でも戦前の事よりもその後においての
屈辱があったのではないかと言うと、ほとんどの友人は
ある方からない方へ流れる大原則でしかないと言います。
一方、ドメスティックな話ではお金に困っている人は多いのですが、
なかなか流れてきません。
やはり溝を掘って道をつけないと溢れる水も広がるだけで、
ない方へばかりは流れないのです。
一生懸命に通り道を作る努力を続けているのが隣国なのです。
身近な国内では落差自体が小さいと言う事、
溝を掘ればよけいな場所まで傷がつくと言う事などあって
思うように流れてくれません。
このまま、だんだん干からびてきたら水分の吸収力も高まって
流れてきた水を吸い込む能力も高まりそうです。
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by tatakibori | 2012-08-31 21:06 | 日々の生活 | Comments(0)

老舗

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今は一人で細々とやっていますが、我が家は木彫を生業としてから三代目で
およそ90年ほどが経過しています。

日本には老舗と言われる創業100年以上の企業が10万、200年以上でも3000社以上あるそうです。
最も古いのは大阪・天王寺にある寺社建築の金剛組は創業が西暦578年で世界で最も古い企業です。
一度始めた事をしぶとく続けるのは日本人の大きな特性のようです。
世界一長く続いている天皇家などまさにその象徴です。
商売や代々続いた家柄でなくても田舎に行けばどこにでもある稲作の田んぼの
多くは千年以上の歴史を持つものです。
場所によっては二千年をはるかに超えて稲作を続けてきた田んぼが珍しくないのです。
日本人の大部分は百姓の末裔ですから、ひょっとしたら貴方の家の農業は
創業三千年の老舗なのかもしれないのです。
そういう伝統を守る姿を美しいと思う心や、仕事に対するひたむきな姿勢の
職人気質を尊ぶのが我々が先祖から受け継いできた伝統そのものです。

欧州には日本ほどではないですがそういう老舗も存在するようですが、
アジアの周辺の国々では生業を伝統として受け継ぐ文化がほとんどないようです。
隣国でも小規模な家業を子孫に継がせるより今の代で稼げるだけ稼いで、
子どもは大手企業など安定した職に就かせるのが良いとされています。
老舗という概念を尊ぶことがないのです。

外国籍の友人が何人かいますが、彼らは転職が上手いと思います。
見切りをつけるタイミングもありますが必ず儲かる自分に合った次の仕事を
探す努力をしています。
優秀な彼らは自分を隠さずに語り、はやく友人を作ります。
美術系や職人の仕事は儲からない時が続く事があるので、
苦しい時間を長く持つ場合があります。
そういう時に、思いきって他の世界に飛び込むか、
それとももう少しじっと辛抱してみるかたいへん悩む問題です。
グズグズと三代も続けてきたとも言えるし、
大きな伝統を作るためにひたむきな努力を続けているとも言えるのが
今の私ですが、後継者については全く考えていないのも現状です。
先の事を考えるより、今の仕事を最高のものに仕上げようと
努力するのも日本人の特性だろうと思います。
その中から幸いにも続いてきたのが老舗ですから、
その影にある見えない努力の積み重ねは想像もできない
大きなものなのでしょう。
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by tatakibori | 2012-08-29 13:20 | その他 | Comments(2)

隈取絵師

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津山では話題の江戸時代の絵師・鍬形恵斎を主人公とした歴史小説です。
恵斎の描いた鳥瞰図「江戸一目図屏風」は東京スカイツリーに複製が
展示されていて現在の眺望と比較が楽しめるそうです。
この本は山陽新聞でも大きく取り上げられているのが記憶に強く残っていました。
私と同世代の地方在・サラリーマン作家の華々しい文壇デビューと言うだけで
力強い存在感とその才能の豊かさを想像させてくれる記事でした。
じつに羨ましい人がいるもんだ・・と思ったのです。

この著者の平茂寛(ひらしげかん)が既知の友人であったのには驚きました。
兼業なのでペンネームを使っていたので分からなかったのです。
平茂寛氏は大学の一級上になるのですが私が1年遅れて入ったので同い年です。
在学中は知らなかったのですが、津山に住んでいる同窓会の仲間です。

本の内容はまさに歴史小説のスタンダードを外さぬ正攻法の力作です。
冒頭の度肝を抜くような官能的な表現は五味康祐などを連想させますが、
文体は無駄な飾りを排した淡々とした描写で、スムーズにこの世界に
入っていけるのが特徴です。
整然とした展開が物語を美しく築いているのを感じます。

普通の職業で言うと定年までのカウントダウンが始まった年齢ですが、
執筆業となるとここから始まるような奥の深さがあります。
高校時代の仲間にも優れた作家達がいます。
ITや経済に詳しい竹内一正氏、有名な歴史学者の山本博文氏などです。
机を並べて学び、同時代を生きてきた共有できる「言葉」があるのかも
しれませんが、どれを読んでも理解し易い優れた文章を書く人ばかりです。
私にも、まだまだ学ぶ事も多いし、努力できる事もたくさんあるのを
彼等が教えてくれます。

津山の人達にお薦めの作家がまた一人増えました。
「隈取絵師」を是非読んで下さい。
ブックセンターでも1,575円で手に入ります。
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by tatakibori | 2012-08-28 09:53 | 読書 | Comments(0)

大東亜共栄圏

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ここ連日のニュースは隣国達との領土問題を伝えています。
中国も韓国もまるで国家のアイデンティティの核が「反日本」であるように思えます。
現状で日本と中国、韓国が友好的に組んでしまうと世界の経済の中心が
東アジアに移ってしまうのは確実になってきました。
それを阻止するために領土問題がはるか過去に仕組んであった・・
というのが私の考えです。
あれから色々な出来事があったので忘れてしまいそうですが、
2年ちょっと前にプリウスなどトヨタ車暴走事故が騒がれた事がありました。
結局、狂言のような事件だったのですがトヨタの受けた打撃はおそらく一千億円を超えると想像されます。
永遠に追い越せないと言われたGMにトヨタが追いついた直後の出来事です。
その影にある悪意と領土問題の深層に潜む悪意に同じものを感じるのです。
たいへん愚かな反日教育は何故行われ続けているのか・・と
どうして原子力発電の未来を政府が語ろうとしないのか・・は同じ「意思」なのではないかと思います。

その「意思」にとって大東亜共栄圏こそ潰しておかなければならない構想なのです。
東アジア共同体というのも同じで言葉を変えただけのように思えますが、
その「意思」は「大東亜」という言葉の重みと響きを極端に恐れ封じ込めたのです。
我々の生活や受けてきた教育の中にもまだまだ多くの「仕掛け」が隠されているようです。

ネトウヨと呼ばれるおかしなナショナリズムの流行には多くの人々が危機感を持っています。
脱原発運動も好ましくない人が中心にいて多くの普通の人々の意思を反映し難いように見えます。
日本はどっちへ進んでいくのでしょう。
インターネットのニュースを見ないのが一番賢い生活かもしれません。
インターネットそのものがその「意思」のためにあるのですから。
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by tatakibori | 2012-08-18 16:10 | その他 | Comments(6)

日本赤十字社救護斑

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ネットや新聞、雑誌で読んだ話ではなくて私が育った過程で
周りの大人たちから聞いた話を書きます。

従軍○○婦と言えば今話題の慰安婦の問題になりますが
1980年代までは従軍看護婦の事でした。
戦争は男が行くものですが、唯一女が戦場に行く事が可能なのが看護婦だったのです。
正確には「日本赤十字社救護斑」というチームに参加するのです。
それは医師一人に看護婦が10名で構成されていたそうです。
隣家の奥さん(故人)は大正12年生まれで女学校を卒業後に
どうしても戦場へ行きたくて姫路の日赤看護学校で学び、
救護斑としてフィリピンへ赴いたそうです。
そこでは敗戦後の悲惨な逃亡生活があり、彼女の晩年に自費出版された
自叙伝に詳しく書いてあります。
生還が奇跡とも思えるような、まさに悲惨な戦争体験で悲しい話です。
従軍・・・と言えば他には記者くらいしかありません。
女性の戦死者は従軍看護婦だけだったのです。

慰安婦と言うのは一般的でなくて、やはり「女郎」が当時の言葉です。
戦争末期には娼婦達も仕事がなくなり勤労奉仕の動員に参加しました。
昭和5年生れの知人は旧制中学の授業が中断され工場や農地で
働いたと言います。
そこで給食を作っていたのが女郎のおねえさん達だったそうです。
純情な中学生には女郎は刺激が強く、しかも慣れぬ賄の仕事は雑で、
大鍋で作ったカボチャの味噌汁を肥柄杓で小分けにする光景は
飢えた育ち盛りでも食欲を削がれるものがあったと聞きました。w
売春防止法は昭和33年ですから戦後もかなり経ってからの話です。
娼婦は特殊とは言え存在していたのは事実です。

「従軍慰安婦」という言葉は明らかに後の造語であり、
当時を生きて戦った人達には不思議なものでした。
特に救護斑の看護婦だった人達には不快な言葉です。
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by tatakibori | 2012-08-16 20:04 | その他 | Comments(2)

先祖返り

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写真はイチョウの葉です。
右の小さなものは普通の葉で左は先祖返りしたものです。
大きなイチョウの木の根元から生えてくる細い枝に出来る葉は左のように
真ん中が割れた大きな葉になります。
我が家では他にも、カイヅカイブキの枝をばっさり切ると、
そこからスギのような尖った葉の先祖返りの枝が出てきます。
植物の異形は探すと意外に多くあるようです。
植物は移動しない(逃げられない)ので原発事故による放射線の
影響で異形のものが出現する可能性もあるので
それを探している人達もいますが、まだ驚くようなものは
出てきていないようです。

人間にも先祖返りじゃないかと思う人がいます。
一番はっきりしているのはオリンピックに出場するスーパーマン達です。
数万年以上前の人類は今より速く走って、木に登ったり素早く活動していたと思います。
文字の無かった時代の人々は今よりずっと記憶力が優れていたという話もあります。
霊感なんかも先祖返りの能力だと私は思います。
原人とか旧人への回帰ではなくてホモサピエンス内での先祖返りという意味です。
先祖返りでなくても眠っていたヒトの能力を極限まで追い詰め高める努力をした
人々がオリンピックに出場しているのは間違いありません。
オリンピックを見て多くの人々が「勇気を貰った」と言いますが、
人間の可能性はまだまだ奥が深いように思えるのは確かです。
今からでも遅くない、何か一つくらいそういう努力が出来ると思うから
「勇気を貰った」という言葉が出てくるのです。
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by tatakibori | 2012-08-13 13:00 | 日々の生活 | Comments(0)

消費税増税

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消費税増税が決まりました。
とりあえず増税は国民の負担が増えるのだから反対する気持ちは理解できます。
先進諸国の消費税は10~25パーセントで日本だけ特別に低いという話もあります。
世界の国境を無くしていく努力を続けるなら、それに合わせていかなければ
ならないと言う意見にも納得できます。
それならば諸外国並みに食料品は別の税率が必要だという意見もあります。

日本国の借金は960兆円で人口は1億3000万人、一人当たり750万円もあります。
これは先進諸国に比べてとても多い数字です。
ここだけを捉えて考えれば消費税が少ない分を将来に先送りしている状況です。
30年後に、仮に人口が1億人で財政赤字が1500兆円なら1人当たり1500万円で
今の倍になります。
しかも、福島の原発を整理するのに1兆ドルかかるという話も出ているようですから、
それだけでも目に見えない借金が80兆円は余分にある事になります。
将来の事は誰にも分かりませんが、若者にとって大きな負債がのしかかってくるのは
確実な話です。
あまりに大きな負債があると、人間はお金の奴隷になります。
大きな犠牲を払って返済を優先しなければならないのです。
今の年寄りが幸せな生活を送ったツケが将来に重く残っていくのです。
これでは若者に夢や希望がなくなってきたのはしかたがありません。

「終末時計」を見た事があります。この世の終わりまであと5分だそうです。
2年ほど前には6分だったのですが大震災と原発事故で一気に1分も短くなりました。

人類の未来はすでに食い尽くされてしまっていて、将来はそれを返すだけの
生活になるのでしょうか。
若者に夢を持てと言うのはかなり無理があります。
むしろ今の為政者や親達が夢や希望を作り、それを語らなければなりません。
現実は誰を責めても解決しない問題ばかりです。
私の家族は返済不能と言われた大きな負債を背負った事があります。
希望を持ちそれを語る事が出来る人でなければ返済は出来ないと思います。
「許さない」「戦う」「勝ち取る」「腹が立つ」「嫌い」というような醜い言葉を口にしていては
問題は解決しないというのが私の経験からの考え方です。
言霊(ことだま)と言いますがまさにそれですね。
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by tatakibori | 2012-08-10 19:52 | 日々の生活 | Comments(2)

忠魂碑

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現在ある多くの忠魂碑は戦没者の慰霊のために遺族会が中心になって建てられたものです。
日清戦争、日露戦争の忠魂碑は自治体によって建てられており、
小学校の校庭の隅に建てられたものもありました。
敗戦後にGHQによってその多くは撤去されました。
負けた戦争ですから戦没者や遺族も肩身の狭い思いをした時代も長く、
遺族年金の支給にも長い年月を要したと聞きます。
子供の頃、何人かの友人の家の玄関に「遺族の家」というプレートがつけてあり、
その家のおばあさんに仏間に通され戦没者の話を聞かされた経験があります。
私が生れるずっと前に終わった戦争の話は実感がなく、
遠い昔話のように聞いていました。
我が家には戦死者がいなくて良かった、というくらいに思っただけです。
不思議に年をとってくると死んでいった兵士達の気持ちを思うようになりました。
部隊が南方に出発する前に幼子を連れた妻と最後の夜を姫路の旅館で過ごした話など
息が詰まるような気がします。
彼らの思いが今の若者(曾孫)を守っているのを実感する事があります。
数年前から亡父に代わって護国神社へわずかですが志を送っています。
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by tatakibori | 2012-08-09 14:00 | 日々の生活 | Comments(0)

67年目の原爆の日

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8月6日は広島原爆の日です。
当時の人々の多くが故人になり記憶が風化していきます。
戦後になって作られた伝説の方が多いかもしれないと思います。
父から聞いた話を書き留めておきます。

先ず、原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」
の主語が何であるかハッキリしない碑文に対しては当時を生きた世代の
多くの人が反感を持っていました。
碑文そのものが議論を巻き起こすというのは「文章」として失格であると私も思います。
平和への思いはイデオロギーや立場を超えなければなりません。

父は戦争末期には松戸の航空学校の学生でした。
そこでは当時日本でも研究が進められていた原子爆弾の理論や現状も教えていたそうです。
8月6日の広島への原爆投下は即刻伝わり、教官も学生も戦争はいよいよ終わりを迎えるのを知りました。
米国が研究を先んじて実戦に使用したのは19歳の学生にも理解できたのです。
ただちに、最終の戦闘の特攻に備えて学生は交代で帰省せよと命令がありました。
父は帰省中に玉音放送を聞いて、すぐに上京しました。
軍の管轄下にあった学校も寮も備品や食料、車両などほとんどもぬけの空だったのです。
私物の一部もなくなっていました。
それでも繰り上げ卒業の証書が発行され、学校は閉じられて占領軍に引き渡されたそうです。

終戦直後に政府は深刻な食糧不足のために食糧増産を目指して全国で開拓を計画します。
帰省した父は両親と弟達と共に昭和20年10月には陸軍演習場跡の日本原開拓団に入植しました。
しかし、GHQによりストップがかかって一度は解散命令が出たそうですが、
その直後、開拓事業が認められて再度開拓が始まったとあります。
開拓の歴史の方はまとめられて本になっています。
これが我が家の戦後史の始まりです。
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by tatakibori | 2012-08-06 11:41 | 日々の生活 | Comments(2)

落書き

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後醍醐天皇が優れた文人でありながらその政治手腕が劣っていたのは
明らかで「二条河原の落書き」という歴史上最も優れた政治批判の文まで登場します。
「ばさら」と呼ばれる反体制の人々の出現も後醍醐天皇の個性を反映しているように思えます。
ばさらは「身分秩序を無視して公家や天皇といった時の権威を軽んじて反撥し、
奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識であり、
後の戦国時代における下剋上の風潮の萌芽となった。」
とwikiにあります。まるでヒッピーとかフラワーチルドレンを連想します。
落書きは今の「2ちゃんねる」と同じであるし、
ばさらは紫陽花革命とか言っている人々と共通のものがあるとも思えます。
ただし、二条河原の落書きを読めば分かるようにレベルの高い文学的教養は
2ちゃんねるなどとは比較になりません。
自由で開放的で芸術文化を愛した当時の世相がよく分かります。

後醍醐天皇は失脚して吉野に逃れますが、大胆な技で自らの正統を主張して
南北朝時代が始まりますが、あっけなく病死して怨霊となって足利尊氏を苦しめました。
その霊鎮めのために天龍寺が建立されたとあります。
湊川の戦いで死んだ大楠公をはじめ、児島高徳もずっと南朝を支持したのです。

時代はずっと経って、元禄の頃に徳川光圀は楠木正成を理想の忠臣として
「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立しました。
それよりわずか前の貞享の時に津山藩家老、長尾勝明は児島高徳の忠義心を讃え
顕彰碑を建てたとあります。
この時代は芭蕉が活躍し、円空が創作を始めるなど日本の歴史上最も「アート」が
花開いた時であると私は考えます。

余談ながら楠木正成ゆかりの湊川神社の天井絵は棟方志功が呼びかけ多くの版画家が
作品を寄せて飾ってあります。祖父の版画もあるのですが私はまだ見ていません。
児島高徳ゆかりの作楽神社には日本で最初のレコード歌手である川上音二郎が寄進した
橋や建物があります。西欧文明が入ってから新しい舞台芸術や音楽を始めた川上は
児島高徳の芝居で成功したのです。
大衆芸術と後醍醐天皇の接点は明治になっても続いていたのです。

木彫と文学という視点で歴史を読むと日本の美術史は鎌倉時代の木彫が最も大きな存在であり
それをどう評価するかとは別に芸術に対する日本人の価値観そのものを表しているのは
間違いない事実です。
南朝贔屓と言われる保田與重郎師の「日本の美術史」は鎌倉彫刻に否定的です。
そのあたりが私の仕事の出発点の一つであります。
そしてそれは大学の一般教養で習った美学美術史とは正反対でした。

以上、かなり狭い視点の日本史でした。
今、多くの人々が新しいと思ってやっている事のほとんどは
かつてやり尽くされてきた事の反芻でしかないと私は考えます。
これが児島高徳像に込める私の思いです。




写真は、三角刀による鉈彫りです。
この方法は円空もあまりやってないのですが、
一番簡素な表現として驚異的な早彫りのテクニックで使っています。
この技法をものにするには丈夫で切れの良い三角刀が不可欠です。
円空も祖父も現代のような丈夫で切れるノミを手に入れることは出来ませんでした。
ややずるい表現のように思えてあえて封印して他の表現が上達するまで
使わないで我慢していた技法です。
ギターの変則チューニングで叩いて演奏するのに似ているかもしれません。
他の表現が豊かでないと生きてこないという意味です。
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by tatakibori | 2012-08-02 11:00 | アート | Comments(2)