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レトリック

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前回の記事のコメントに「千坂さんの論理はトートロジーだ」といただきました。
それは本人も認めているそうです。
「トートロジー」とは「ある事柄を述べるのに、同義語または類語または同語を反復させること」です。
しつこく同じような事柄を繰り返していると言われれば、そういうところもあるようです。

写真は私が人生で最も影響を受けた本です。
これは千坂とはまったく反対のレトリックで、ある事柄を語りながら、
その奥にある人間の生きていく本質的な考えを教示しています。
一見、少し思い込みの強いような話が展開されますが、それは言葉に尽くせない
本質を示すために回りの事柄を比喩的に上げるなどあらゆる表現方法を駆使して
書き綴られているからです。
物語であったり、評論文であったり形式は様々ですが、
優れた歌人である保田は長編の文章と言えども密度の高さを下げることなく延々と書いています。
だから読むのにとても疲れる文章です。
柳宗悦の民芸運動に同調した文学者ですから、美術論は言わば反体制の立場を貫いています。
しかし、さらっと流して読むと反対の意味に取り違えてしまいそうなほど
デリケートな思想がそこに浮かんでくる仕掛けがあります。
体裁は思想書ではありませんが、この2冊の本から学んだ思想が今の私を作っているように思えます。
私が19歳の時に読んだ、保田與重郎「日本の美術史」と22歳の時の「天降言(あもりごと)」です。

所謂右派の人々、特に新右翼系には強い影響を与えたと思われる保田の日本浪漫派に
アナーキストの千坂恭二が影響を受けたのは、キーワードとして「反体制」「南朝贔屓と日本史における悪党」、
それに「明治維新の解釈」などがあったのだろうと思います。
千坂の三島由紀夫論は、文献だけでは分からない三島の人脈や影山正治(大東塾)の
存在を考えれば少し違ったものになったようにも思えます。





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by tatakibori | 2015-09-29 14:55 | 読書 | Comments(0)

思想家

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千坂恭二「思想としてのファシズム-大東亜戦争と1968」彩流社2015

ネット上では左派も右派も自分が心地よく思える情報を貪るように探し、
それをSNS上にリンクして再発信し、それによって埋め尽くされた感さえあります。
多くの評論家は糧を得るために「常客」の喜びそうな情報を美味しく料理して、
講演会や単行本で稼ごうと努力しています。
大手新聞社まで左右に分かれる事により支持者を作って売り上げの基本に
するような戦略にすっかり変わってしまいました。

千坂恭二は思想的に両極端である人々へ向けて語りかけています。
おそらくどちらの人も心地よい言葉をこの中に捜す事が出来ます。
かといってテレビで見かけるような名のある評論家、学者とは
違いかなりストイックな生き方を貫いてきたようで、
その心地よさは糧を得るための手段とは違います。
資格も職業も持たない在野の(権力に近寄らない)本物の革命家
なのだろうと思います。
私には言葉の定義が良く分からない部分もあるのですが、
この本は「評論」ではなく「思想」が書いてあります。

1968年は1950年生れの彼にとっては18歳という多感な時期であり、
「全学連」と「全共闘」の節目であったのです。
その節目から始まるアナーキストの闘争から見れば、
戦前を否定する事に主眼をおいた戦後リベラルという
民主主義は意味を持たなくなります。
それこそ連合国・アメリカの思うつぼに嵌っているからです。
むしろ否定されてきた、ナチスや中野正剛(東方会)の
ファシズムを丹念に読み取る事により日本発の世界革命を
起こすのが彼の思想のようです。
前回の当ブログに書いた「デモに参加する学生が、
デモに人生の希望を見出した」のは本来戦勝国に
押し付けられた価値観である「個人主義の幸福」よりも
「幸福」に対する「使命」が「希望」になってくるから
だろうと、この本を読んで私は思いました。
多くの左派によるニヒリズム的論調とは一線を画す
「希望」に満ちた「暴力革命」というのがあるかもしれないと
思わせてくれる不思議な話です。
千坂は「戦後最年少のイデオローグ」と言われたのですから、
その思想は彼から始まるものです。

「連合赤軍」「日本赤軍」「古今集」「吉本隆明」「蓮田善明」
「保田與重郎」「三島由紀夫」「日本浪漫派」「南北朝時代」
「ハイデッガー」「ユンガー」など多少は知っている
キーワードに助けられましたが、そういうのに無縁の人は
かなり読みづらい本です。



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by tatakibori | 2015-09-28 16:38 | 読書 | Comments(0)

いただきます

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私は1956年生れです。
高校を卒業したのが1975年、大学は一年遅れて1980年に出ました。
5年間は東京で過ごしました。
たいへん貧しい生活でしたが、
不況と言われながら社会は豊かさへの強い憧れを持ち、
すぐそこに輝くような未来を実感していたように思えます。
実際に80年代に入ってからは目に見えるように
世の中は豊かさを手に入れていったのです。
単純に物質的な欲望を満たすだけだったと言えばそれまでですが、
貧しい人が減っていったのは確かだと思います。
バブルがはじけたと言われるのが1989年です。
私の場合は、1975年に19歳で、1989年に33歳だった事になります。
個人的には1980年代が人生で一番苦しい時期だったのですが、
それでも経済成長の恩恵は確かなものがあったと記憶しています。

この数年、思い続けている事があります。
今の若い人に希望を持てと言い難いのです。
国の抱える財政赤字、成長のない経済、高齢化社会に少子化、
ますます不安な国際情勢など、いたずらに氾濫するネットの情報も
私の頃には無かった問題です。
先日、国会前のデモに参加する学生が、デモに人生の希望を見出したと
発言していました。
こういう人は60年安保の頃からいて、不思議ではないのですが、
若い人が少ないのに、さらに希望を持って生きているとなると
希少な人物のように思えてきます。
しかし、残念ながら健康に見えないのが悲しいところです。

私は未来への希望とは何か考えます。
若い人向けの小説を読み、映画を見ました。(ネット配信のものですが)
映画の中ではハリウッドでも日本でも家族で食事のシーンがよくあります。
私は伝統文化の中で生きるのが信条ですから、
家族みんなで夕食のテーブルを囲み、手を合わせて
「いただきます」と言って美味しくいただく生活の中にこそ
希望があるのではないかと思いはじめました。
自家栽培の野菜や米が食べられれば理想ですが、
地元産野菜を物々交換や届け合うなどもありがたいものです。
我が家は神道なので一つ拍手をして「いただきます」と声を出します。
教えの少ない神道ですが「食」はその中で最重要です。
伊勢神宮も内宮、外宮は天照大神さまと豊受大神さまで、
簡単に言うと、太陽神とそれにお供えする食べ物の神さまなのです。
手を合わせて「いただきます」の所作と声の中に神さまが在ります。
あらゆる宗教、民族でこれは共通のようです。
この中にこそ、ほんとうの希望があると思います。

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by tatakibori | 2015-09-18 19:23 | 日々の生活 | Comments(0)

最高傑作は次回作


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「私の最高傑作は次回作だ!」はチャールズ・チャップリンの言葉です。
チャップリンは完全主義者で、常に向上を目指していたのが良くわかります。
彫刻を始めて三十数年、私も常にそう思ってきたし、そう思わなければ
向上はあり得ないのだと信じてきました。
長く彫刻をやっていると過去作が山のようにあります。
人手に渡ったものを含め、それらを見ると、
その時の気持ちや、年齢なりの表現もあるように思えてきます。
棟方志功の全盛期は40~50代だと思います。
私がその年齢を超えるようになり、棟方作品の若さを感じる時があります。
今から私には、天才の40歳にどうやったって追いつけるわけがありません。
映画は一人ではできませんから作者の年齢が作品に影響する
部分が彫刻とは違うのだろうと思います。
筆を持って木版画に添えて手紙を書くことが多くなってきました。
自分にとっては書いたらおしまいで二度と目にする事のない作品です。
そう思えば愛おしいというか、これが最高傑作かもしれないと思う時があります。
もう二度とこの表現は出来ない・・。
次回作が最高傑作と向上心を持つのは、いさぎよく無い考えだと思い始めたのです。
その時、その時を刻んで、今が最高の状態であるように努力を続けなければなりません。
それよりも健康に留意して先を長く見据えるのが大事です。



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by tatakibori | 2015-09-06 12:51 | その他 | Comments(0)

偶像崇拝

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IS(イスラミック・ステート)が貴重な歴史遺産を破壊しているとニュースが伝えています。
ユネスコの世界遺産であるバーミャンの磨崖仏は2001年にタリバンに破壊されてしまいました。
イスラム教の教えが偶像崇拝を厳しく禁じているからです。
私は仏像や日本の神様の像や版画を彫るのが仕事ですから、悲しくなってしまいます。
旧約聖書には「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、
また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」
(出エジプト記、モーセの十戒)

とあり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では基本的に偶像崇拝を禁じています。
日本国内でも日蓮正宗系(創価学会、立正佼成会などを含む)やキリスト教系の
エホバの証人などのいわゆる新興宗教系の宗教で偶像を固く禁じている所は多くあります。
意外にも浄土真宗が偶像を禁じているのは、この仕事を続けているから知った事です。
他には、もともと共産主義は宗教を否定していますから私のお客さんには少ないようです。
宗教はだいたいが神を可視化するのを嫌います。
神道ではご神体が木像の場合がありますが非公開というか、
聖なるものは見てはならないものという意識です。
日本の神道は宗教の中ではやや異色な存在で他を否定しないという特色もあり
そもそも「偶像」という概念が無いようにも思えます。
万物に神が宿るのですから、対象は何でも良いのです。
それでも、人間の本能の中に人形を愛でるというか飾って思いを込める気持ちが始めからあるようです。
その一番端的な例が「個人崇拝」です。
中国の毛沢東の肖像、北朝鮮の金日成とその一家の像、ソ連のレーニン像などは個人崇拝です。
それは共産主義の理想とはかけ離れた考えのように見えます。
宗教を否定してもそれに代わる何かが必要だし、偶像崇拝を否定すれば、
イコン、オーナメント、オブジェと名や形を変えて何らかの形あるものを
求めるのが人間の本能だと思います。
私の住む岡山県北美作地域でも、戦国時代に岡山のキリスト教徒の戦国武将が
勢力を伸ばし多くの神社仏閣を破壊したという歴史があります。
何時の時代も戦争は宗教やイデオロギーの対立から始まるのです。
異教徒を否定するのも人間の悲しい本能かもしれませんが、
今では多くの宗教で、それを乗り越えて平和への貢献を優先しています。



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by tatakibori | 2015-09-05 11:41 | その他 | Comments(0)