一年に一度は来よと

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「一年に一度は来よと 云ひし子の やさしきことば 忘れかねつも」
木丹木母集 保田與重郎

私にとって、この歌を見て浮かぶ所は上斎原か直島です。
どうしても僻地か離島のイメージです。
この歌は、その背景と具体的な前後関係で昭和20年代の
上斎原ではないかと思われます。
昔の上斎原の人たちは客人に「よお帰って来なさった。」と言いました。
一度でも訪ねると親戚扱いで再訪は当然の事だったのです。
同じように、福武が進出する前の直島の人々は「来年もお出んさい」と
別れを惜しんで港からフェリーを見送ってくれました。
手を振るアロハシャツ姿の町長さんが目に浮かびます。
それは4~50年も前の話です。
「おもてなし」と言いますが、昔からそういう気持ちの強い土地柄があります。
伊勢神宮への街道には伝統的に「接待」の習慣があると言います。

付け焼刃の地域おこし、日本版DMOなど50年遅い、いや300年遅いと言えます。
歴史と伝統は後から作れないのです。

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# by tatakibori | 2016-09-05 20:16 | その他 | Comments(0)

落柿舎のしるべ

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京都嵯峨野の落柿舎は芭蕉の門人・向井去来の遺跡です。
去来については一般にあまり知られてませんが、
落柿舎で手に入る「落柿舎のしるべ」(保田與重郎)¥700
という冊子を読むとよくわかります。
そのP.16に興味深い一文があります。
初版発行は昭和45年(1970)です。
「近年発見された円空を、近世第一の彫刻家として尊敬する人は多い。
円空を彫刻家と呼ぶのは、少しをかしい表現だが、私はこの上人の
歌集を見せられた時に驚いたことは、そこに見られる円空の情緒や、
考え方さへ、仏といふよりわが神道第一だつたことだつた。」
向井去来は儒学を学び、武道から神道を学び、そして武士を捨てて
俳諧へと進んでいます。
時代は元禄ですから古学の復興以前であり、後の時代の
国学までは進んでいない頃です。
現在の宗教観では、明治になって神仏を分け、さらにキリスト教が入ってきて、
それ以前の庶民的で自由な信仰の感覚が忘れ去られたと言えます。
それにしても去来の俳句、円空の彫刻にはある種の清々しさがあり
元禄時代の成熟した文化の風土を感じさせます。
俳人去来と修験者・円空上人の共通点は「自然(かんながら)の道」なのです。



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# by tatakibori | 2016-09-04 21:02 | その他 | Comments(0)

直毘塾の精神6

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『生命現象は運命的であつて、「受け取られ」「授けられ」「与えられ」「賜物」であつて、
これが家内的な「与える貰ふ」即ち相互的「分け合ひ」の基である。
祖先から子孫に亘つて生命現象の相互的授受であつて、ここには絶対的(切り離れた)
授者も受者もなく、すべてが相互的「持ちつ持たれつ」の「分け合い」である。
この相互連結から飛離れて(切断して)、その流通の外に立つのが理性の超越行為で、
ここから絶対的「我」が発達することは容易に理解されるであろう。
生命は飽くまでも相互的分け合ひ「(合ひ=愛)」の連結で、
古語では産霊(むすび)ととなへられた。
日本の神典はこの産霊を中軸とする展開を描出してある。
家の体制はここに最も純粋な形で現はれてをる。

生命は持続即ち時間的であつて、「過去」と「奥」と「深」みであり、
理性(意識)は空間的で薄い表面である。

産霊(生命)の国では氏神が産土神となり、又産土神が氏神となり、
氏外のものも氏子となり、更に天ッ神と地ッ神は婚して国ッ神となり、
外(とつ)国人も諸越人も結び合つて国民となつた。(「とつ国」は
古語では畿内以外の民であつたが、今では国内となつてをる)
産霊の原理は決して狭義の民族主義の排他性ではない。

祭政一致の名は曖昧であり、又その概念は非常に誤解され易い。
一時大政翼賛会や祭政一致の名によつて、古い神政教の如きものが出現した。
即ち神道が国家神道となり、政治が神の名によつて極端な専制となつた。
幕府や軍部は「神聖」を翳(かざ)して国民を畏縮せしめた。
西洋にても中世紀の法王制は一種の神政教であつたし、ユダヤが会て強烈な
神政教体制であつた。
これを祭政一致と同じものであるとすると祭政一致は確に専制政治である。
然し祭りの場は政治ではない。政治は人間の作為である。
神祭は兄弟体制のもとで、本来産む世界に属す。政治は歴史であり、神祭は運命である。
兄弟は政治の作為では造られない。政治は内外の関係に対応する一時的な政策である。
これは日進月歩式に変化し進展する。昨日の政治は明日の政治ではない。
兄弟は血の連りを予想する。生れることが先で、造ることは後である。』


松永材の考えは簡単に言うと「家の体制の国は、先祖を祀り、分け合い、
皆が等しく兄弟の気持ちを持つ」という単純で純粋なものです。
直毘塾の精神には書いてありませんが、米国が占領下で日本人の精神を骨抜きにして
今後二度と逆らわないようにするには「家」の意識を壊す事が最も重要であると
考えていたそうです。
他民族より強い団結、同胞意識の根源が「家」なら、それを再生するのが
日本を心豊かな国に育てる為に重要です。
それは戦時下の官主導の「隣組」ではなく、作物を分け合う「向こう三軒両隣」的な
ご近所意識でなければなりません。
現状の地域おこしにおいても、ともすれば官主導の隣組がすぐに出来上がりそうな
怪しい気配も一部に感じます。
それが政治家でなくとも扇動的な実力者によって地域や自治体は簡単に大きく動く事があります。
自然(かんながら)の道がいちばんたいせつです。






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# by tatakibori | 2016-09-04 11:03 | その他 | Comments(0)

直毘塾の精神5

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「今日の戦争は経済戦(経済支配の世における戦)と謂はれるが、
厳密には不経済戦であつて、空費乱費の競争である。
人命までも空費される。昔の征伐や征討は医師が病気を
退治すると等しく不正を懲らし邪を防いだ。」

「もともと「戈(ホコ)を止(ト)める」の武(止戈は「クワヲトドケル)と読み、
乱逆を治め止めること。左伝宣公十二年に「楚子曰く、夫れ文に止戈を武となす」とある)は
乱逆を鎮定して平和にかへし「千戈を戢(ヲサ)(戢は藏)める」(詩経・周頌)ことである。
即ち武とは「武器を藏に納める」こと武器を捨てゝ使用しないことであつた。
世をよく治めて千戈を止めるのが武であつた。然るに今は侵略や略奪が武となつた。」

松永材は戦前からの日本主義の源流とも言える存在で
その教えや影響を受けた人達が今の日本会議のもとになるものを
作ったと言える人物です。
柳宗悦の民芸運動は壮大な芸術論であったのですが、民芸運動は
雑誌や浅い解釈により「英国人が見た日本の伝統芸術論」のような
ものとして姿を変えてしまいました。
同じように日本の古くからあって未来へ残すべき思想を示した
松永材の言葉は歴史の中で埋もれてしまい、
世はネトウヨ的な民族思想に席巻されてしまいました。
民芸運動にしても日本会議にしても何か本質的なものを忘れてしまったようです。
いずれにしても「自然(かんながら)の道」を考えるのがたいせつなのです。

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# by tatakibori | 2016-09-03 17:45 | その他 | Comments(0)

直毘塾の精神4

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「歴史の奥に運命があり、人間が生まれる前に自然がある。
しかしてこれには理性も自由も力も手が届かない。
ここには理想も自由もない。従て専制もない。
日本人として生れたのは自然であり運命である。これは征服出来ぬ。
如何に征服に突進しても、自然内運命内に留らざるを得ない。
日本人として生まれたことは選択の自由ではなく、又専制でもない。
寧ろこの運命に耳を傾けることによつて専制から解放され、
解放された生命即ち真の自由が回復する。」

この「自然」とは神道でいう「自然(かみながら・かんながら)の道」の意味です。
それは日本人の原点と言うべき原始からの信仰であり、
米つくりを守り、先祖を祀る素朴な心根のものです。
その自然な「家体制」と外来の「他人制」を対比させてあります。
「他人制」は個人主義であり、資本主義も共産主義もその考えから
始まっていると書いてあります。
その「家」は旧民法の家制度でもなく、
江戸時代の専制的な家督制度とも違うと書いてあります。

戦時下で一億玉砕も辞さぬ心意気を良しとして特攻隊に志願した若者にも向けて、
敗戦後の日本再生のために書かれたものです。
松永材の言葉は空襲で焼け出されて絶望に苦しんでいた母にも
希望にあふれるものだったそうです。
「何でも良いから希望が欲しかった」と母はよく言ってました。
直毘塾の精神には哲学的に難しい事が書いてありますが、
講演を聴く人々のほとんどは理解できる部分をそうやって
聴いていたようです。

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# by tatakibori | 2016-09-03 08:28 | その他 | Comments(0)

直毘塾の精神3

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「金が物々間の流通具である間は未だ物の束縛の下に在るから物によって支配されてをるが、
物より離れて単に金と金と相対するやうになるときは、物はたゞその支配下で駆使され、
金と金とは純粋な主体即ち主権者となつて力(量)の大小に従て征服し又征服される。」
「人間は貧乏なるが故に奴隷になつたのではない。
先づ奴隷にされた(征服-他人化)から貧乏になつた。
他人なるが故に奴隷化され、奴隷化なる故に貧困化となる。」

(上記の「他人」というのは「家」の「家族」に対する言葉です。)

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# by tatakibori | 2016-09-02 18:56 | その他 | Comments(0)

直毘塾の精神2

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仕事とは先人から学び、それを習い、そして後に続く人に伝える事だと思います。
大学の時に研究室の先生達がやっている事を見てそれを強く感じました。
個々の研究はほとんどの場合、たいした意味を持たず後の参考程度にしか
ならないように思えてビックリしました。
研究室は、何か世の役に立つ大きな発見や発明につながるものに
あふれていると思っていたからです。

それから時間を置かずに「直毘塾の精神」を読んだのは幸いでした。
そこには代表的な表現として、このような文章があります。

「生命観よりすれば、我は途中に立つてをつて主体ではない。
生命我は常に遠い祖先から子孫への連結の通路乃至引き継ぎ者である。
故に生命欲も亦我から発するのではなくして祖先から突出されて現れる。
生命観からすれば我そのものは決して個的な我ではなくして、
祖先から突出されて出現してをるものである。
これを生命の現象と云ふ。
意識(知性)は常に我から出るから個的の我のみを意識(自覚)し、
祖先からの引継ぎを忘れる(意識しない)。
それ故に生命欲を我の欲であると考へて意志と混同する。
意志は知性に属し、普通理性又は精神と呼ばれてをる。
生命欲はかくの如くその由来が深く且つ遠いから、
個的な意志の命令では容易に制御されない。」

研究や学問は個人の意志や考えで成立しているのではなくて、
その専門分野にある大きな流れの中で存在するのだろうと思います。
個々のひらめきや発見は知性的ではありますが、
おそらくその肉付けにすぎないのでしょう。
私の仕事に置き換えて考えると、突然に湧き出てくるような
発想での創作というのは難しく、しかもたいていは先に誰かがやっています。
色々な勉強をして「引き出し」を増やすのが創作の可能性を広げる事だと思います。
それにしては人生はあまりに短くて学ぶことは無限にあるように見えます。
そこで我を捨て、先人を学びそれを後に伝えるという引継ぎ者の自覚を
持つのが正しい考えなのです。

           さらにつづく



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# by tatakibori | 2016-09-02 11:17 | その他 | Comments(0)

直毘塾の精神

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このままであれば、11月にはめでたく満60歳になります。
払い続けてきた国民年金はこれで納め仕舞いです。
あらためてお金の事を考えれば、生まれてからこのかた
幼稚園から義務教育を終えて高校へ進みさらに遠く都会の
大学にまで行って無駄とも言える多くのお金を消費したのみならず
人間が生きていくには直接関係ない創作の仕事にしがみついて
社会経済に貢献の少ない人生を歩んできたものです。


私がこの仕事を始めた頃に、父の師であった哲学者の松永材先生が
父の仲間に書き遺した文章をまとめて「直毘塾の精神」という
冊子を印刷する手伝いをしました。
原稿を読み直して、校正したので丁寧に読みました。
その本にはかなり面白い事がたくさん書いてあって、
それからの私の人生に大きな影響を与えたと思います。
父は私にお金儲けを第一にしないで生きていくための信念と
言うか勇気を持つためにこれを読ませたかったのでしょう。


昭和20年代に書かれているので表現が今とは違いますが
一部を引用してみます。

「経済学とは人間の生活に必要な物品の生産や流通、蓄積や消費等の
過程や資本の役目や売買関係等を研究することとなっている。・・
・・・経済学における「生活に必要なもの」は生命に最も接近した
また最も大切なもの(空気や水、胃や肺、心臓・・)でなく限定された
ものに縮小してくる。無くとも何等の痛痒を感ぜしめない宝石や
骨董品や奇物が莫大な経済的価値を持つ。・・・
この広大な世界の中に、金の支配する特殊地帯を設立し、金の主権の
もとに降服し来るもののみを選び出し、他の一切のものを抽象し放棄して、
これを境界外に放逐し、かくして独自の経済帝国を編制する。・・・
その結果人間は豊富な自然に於ける生活が不可能となり、狭い経済国に
入国許可を懇願せざるを得なくなる。・・・「生活に必要物」が次第に
「生活を苦しめる物」になり・・・「生活の奴隷」になりつつある・・・。」


過激で痛快な文章に驚いたのは25歳だった私ですが、父は25歳の頃に
直接の講義を聴いて感銘を受けたそうです。
ここだけ切り取っても全体の意義とはかけ離れてしまいますが、
敗戦後の混乱した時代に日本の若者に向けて書かれた
有意義な言葉が並びます。
それは時代を超え、世代を超えて今の若者へのメッセージとしても、
人間が生きていく本質を考えるための大きなアドバイスになります。
特に「家」についての考察は、なるほどと思わせる日本人の心にある
一番大切なものです。
日本の伝統的な農民や職人の持つ価値観の根源にあるものを
(当時の)科学的に説きあかして、それを未来へ伝えるために
心血を注いだ文章なので、機会あれば少しでも紹介したいと思って
読み直しています。

               つづく


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# by tatakibori | 2016-08-28 10:10 | その他 | Comments(0)

何もしないをしている

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「何もしないをしているんだよ」は、たしかプーさんの言葉です。
検索で調べようとしたら、何もしない時間を持つと仕事の効率が上がると言うような話が出てきました。
それは「何もしないをしている」のとは何かが違うように思えます。
父は疲れ果てて仕事が出来なくなる事が多かったので、
私が「休むのも仕事のうちだ。」と言うと昼寝をするようになりました。
この場合は仕事のために「何もしないで体を休める」行為です。
プーさんの言う「何もしない」は目的がある事ではありません。
クリストファー・ロビンが成長して、自分は「なにもしない」ができなくなってしまったと
プーに告げる場面があるそうです。
自己啓発系の論調で「経済的な効率のために余暇や趣味を持つ」と言うのはどこか貧しい発想に思えます。
私は還暦を迎えました。まわりの友人達は毎日が日曜日になったり、
何もする事がない状態になり生活の変化に戸惑っているようです。
私のように勤めた経験のない人間は、最初から毎日が日曜日で
何もする事がない多くの日々を過ごしてきたと言えます。
でも何もしないで過ごしてきたのとちょっと違うような気もします。
「何もしない」の回りで忙しく働いてきたのです。
目的や意味を持たないほんとうの「何もしない」が出来るようになりたいものです。
言い訳の必要ないほんとうの心の自由がそこにあるように思えます。






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# by tatakibori | 2016-07-23 21:01 | 日々の生活 | Comments(0)

雅号

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私の祖父は明治34年(1901)生れで、名前は山田哲(さとし)です。
父の生まれた大正14年頃から木彫刻専業を目指して大阪の学校へ通うなど
本格的な勉強をしたそうです。
最初の雅号はたしか「頭童(ずどう)」と名乗ったと聞いています。
由来は「ずど」、岡山弁の「たいへんな」と言う意味の接頭語です。
それから「勝雲(しょううん)」と変更したそうです。
勝は勝田郡勝間田町勝間田の地名からとっています。
勝間田は縁起の良い地名とされ、戦争中は生還を願い
出征は勝間田駅からする人が多かったとも聞いています。
隣の駅が「林野(はやしの)」で、「シ」の音が嫌われたそうです。
祖父は戦後になって日本原開拓団へ入植し、
訪ねてきた棟方志功に出会いました。
棟方志功と祖父は意気投合して、いつも二人だけで話し込んでいたそうです。
棟方は「勝雲」の「勝」の字が戦争をイメージさせるので、
「昭雲」と変えたらどうかと提案したのです。
それで祖父の雅号は「昭雲」となりました。
それは我が家にとってとてもおめでたい出来事で、
父(正志)は祖父の晩年に雅号を譲ってくれと懇願しました。
それで昭雲は2代にわたって使われたのです。
2代目の方が長く生きて、圧倒的に多くの作品を残したので、
昭雲叩き彫はほとんど父の作品です。

戦争体験のある人達には「勝負」や「武器」を嫌う人が多かったと思います。
玩具の刀やピストルもダメという人も珍しくありませんでした。
そういう人達が亡くなり、その子供達に当たる私達以上の世代もすでに老人の域です。
そこまで神経質だったのは過去のことで、今は政治家も「戦い」で
「勝利」しなければなりません。
祖父や棟方志功の気持ちを思えば、
もっと深く静かに平和を願い、「戦争をなくす」国にならなければと考えます。
昭雲工房の「昭雲」は平和への願いで付けられているのですから。


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# by tatakibori | 2016-07-13 21:01 | その他 | Comments(0)