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若い人を育てる

twitter上でのある議論に注目しました。
美術系大学の先生や若いアーティストを育てている大物アーティストです。

先ず、断片的に読んでもしょうがないので
全容を引用します。



村上隆

若者は親に教育されてないなぁ〜。というか、学校でも鍛えられ無いんだろうね。
上げ膳据え膳、当たり前って思ってるんだなぁ。
自主性とか無い。今の教育機関全てが、学生=お客様、って言う考え方で運営してるんで、
金を払ってる=オーナーには媚びてるってわけだ。こんなんじゃ、人材育たねぇ〜よ。

厳しく子育てをしてはいけないっていう、なんかムーブメントがあったんだろうか?
皆、教育を受けていない。挨拶が全く出来ない。
団塊の世代Jrは親が「無責任を自由」とはき違えたのか?なにがなんだか意味不明。
友人達が大学の先生やってるの見てて頭が下がります。よく耐えれるなぁ〜。

伊藤剛さんだったかの大学の教育現場の苦悶を漏らしておられたが、
一般常識から教え直すの、本当に不可能性が高い。
カイカイキキは某人材情報提供会社の新人研修ゼミを受けさせますが、
2回や3回のゼミで、変わるこたぁ、たいしたこたぁねぇわな。
高学歴でも全く社会性のない人間、、、ばかりです。






伊藤剛

いまリツイートした一連の村上隆さんのツイートに自分の名前が出てて驚いたんですが(・_・;)、
ぼく自身は「いまの学生さん」に対して、
「自主性がない」とか「躾がなってない」とかはそれほど感じたことがないです。
要求水準が低いのかもしれないですが、むしろ思ったより「まとも」という印象。

マンガ実作系の学校に来る子は、
親の反対を押し切ったり親を説得したりして学校に来る子が多いので、
わりと特殊かもしれない。
でも、挨拶や言葉遣いが出来てない子は結構いる。
誤字も多い。それと知識欲や好奇心の低い子が目立つのは問題かな。

「自主性のなさ」に関していえば、高校までの教育と、
学校という「場所」で培われてしまった「空気の読みすぎ」
に起因しているのではないかと思っています。
とにかく「××しちゃいけない」という規範と、
減点法の評価の中で生きてきた人たちなので。

だから、「君はものを考えてもいいんだよ」
「自分で判断してもいいんだよ」というメッセージを発するところからはじめないといけない。
「積極的に自分で判断せよ」という命令にしてしまうと、
「先生の眼鏡に適うようにふるまえ」というメタメッセージが生じるので、
余計に萎縮すると思わるからです。

もちろん、積極性のない子、自主性に乏しい子はいます。
いるけれど、自分が二十歳くらいのころどうだったかを考えると、
「まーこんなもんか」と思わないでもない。おそらくぼくは教育の場にいる分、
シビアな現場で若いひとと仕事をされている村上さんよりずっと基準が甘いのだと思いますが。

だから、「君は自分でものを考えてもいいんだよ」というメッセージをそれとなく発するというのは、
もしいま自分が二十歳だったら、と考えるからです。意欲はあるくせに妙に自己を抑圧してるため、
能力を発揮できずくすぶっている学生である「伊藤くん」をどうすれば育てられるかという想定。

こうした悠長なことを言ってられるのは、
いま行ってる実作系学校(東京工芸大、アミューズメントメディア総合学院、桑沢デザイン研究所(今年度休講))
の学生たちの意欲がまだしも高いから。以前に行ってた某専門学校だとそうはいかなかった。
「底辺校の現実」をチラとでも垣間見ることになった。

詳しくは控えますが、もうね。
「不憫」という言葉がぴったり来る感じで。
「上」のほうの子は他とあまり変わらないのだけど……
授業をやってて生命の危険を感じたことがあったのはここだけ。

「伊藤くんは高校教員の世界じゃ一月もたない。
自分の意見をはっきり言うから」と、高校教員の友人に言われたことがある。
公立教員の世界では「自主性」はむしろ邪魔なものらしい。
加えて、教員には減点法の評価はあっても、加点法の評価はない。
そんな環境で「自主性」を育てることができるのか。

おそらく、「学校」という職場で教員に求められるプロトコルと、
学校以外の場所で求められるそれが大きく異なっていることに問題の核心はあるのだと思う。
これはつまり、「学校」という場に最適化した人が集まってしまう以上、制度をいくらいじっても、
改善は見込めないことを意味している。





竹熊健太郎

村上隆氏のツィートに伊藤剛君が返信する形で教育論議が続いている。
村上さんは「今の大学生は社会常識がなっていない」と嘆き、
伊藤君は「自分の若い頃を思い返せばこんなものだ」と返すのだが、
どちらも同感。問題の立て方が両者ほんの少しずれている感じ。


問題は、どこの教育現場にも「意欲と能力が高い人」
「意欲はあるが、能力に劣る人」「能力はあるのに、意欲に欠ける人」
「意欲も能力もない人」が混在していることだと思う。
もちろん村上さんが嘆くように「社会常識のない学生」は、
意欲・能力の有無を問わずに存在している。


まず大前提として、「意欲と能力に欠ける人」
に対して何かを「教える」ということは不可能だということである。
社会常識の欠如に対しては、
「意欲のある者」にこれを教えることは十分可能なはず。
問題は「意欲と能力が欠如した者」が少なからず存在することだ。

大学の現場で学生を教える立場では発言は慎重にならざるを得ないが、
一般論をかけば、「意欲と能力に欠ける者」は、
本来大学には「来てはならない」人あなんだと思う。
これは言葉を換えるなら、
「大学として、本当は入学させてはならない」人々である。

本来、入れてはならない人を入れてしまうのは、
ひとえに「経営問題」に尽きる。そういう人を入れなければ、
大学経営が成り立たないということである。
「入れる方が悪い」とすら、自分は思う。

これは本当に深刻な問題だと思う。村上隆さんがおっしゃるように、
学生個人の問題に還元することは、たいへんに気持ちは分かりますが個人的には
「それ以前の問題」が気になってしまう。




3者ともそれぞれの立場や性格が現れてとても興味深く読みました。
私なりの考えは続編で・・・。
by tatakibori | 2010-06-02 08:51 | その他
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