昭和20年6月29日に岡山は空襲を受け焼け野原になりました。
母の生家は市内中心部の道具屋(茶道具など骨董)で
祖父は仕覆(しふく)の職人でもありました。
借家もあり母は裕福な子供時代を過ごしたのです。
空襲で家を失い一家は津山の祖母の実家へ身を寄せました。
祖母の実家は女学校の共同経営者だったので母は幸いに転校して
学校に通う事ができたのです。
その美作学園は、周辺の町村が共同で組合を作り女子教育のために作った
第3セクターのような経営だったので祖母の実家が資産家だったわけではありません。
その女学校には多くの疎開して郷里に帰った
津山市内、周辺の旧家の優秀な子弟たちが教鞭をとっていました。
その中に河野さんという京都工芸繊維大を出られた美術の先生がいました。
河野さんとの出会いが母の生涯に大きな影響を与えました。
河野さんは上斎原出身の柳井さんと従兄弟です。
その柳井さんが保田與重郎、棟方志功を祖父(山田哲)に紹介した人です。
河野さん、柳井さんがいたから父と母は出会ったと言えます。
当時、柳井さんは上斎原の小学校で代用教員だったという秘話もあります。
柳井夫人は津山のもう一つの私立女子校の教壇に立った事もあります。
その作陽学園は創始者が他所から来た人だったので
排他的な津山としては潜り込みやすかったと思われます。
その後、河野さんは東京に出てグラフィックデザイナーとして復帰、活躍されましたが
昭和40年頃に美作学園が大学を作る時に教授になって再び帰省されました。
昭和から平成にかけての津山の芸術文化への貢献は一番大きな人です。
プロフィールにはありませんが、柳井さんは大阪・河内長野に出て京都の出版社へ勤め、
夫人は高校(PL学園だったか?)で教鞭をとられたそうです。
棟方志功との交友が厚かったようで津山にはその名を冠する記念館が出来ています。
よく考えてみると母が空襲で焼け出されなければ私も存在していない事になります。
終戦直後の混乱期には多くの優れた人が職を求めて教壇に立ったからこそ
混乱の中から色々なものが生まれたのかもしれません。
その貧しかった前歴を恥じて隠す人もいますが
高い能力で逆境から何かを生んだ人は隠さなくても良いのです。